写真と標題にはなんの関係もありません。この頃気になる新語の一つとして取り上げました。知ってる人は知っているかも知れませんが、最近、ちょっとカメラにとりつかれ始め、いろいろと情報が載っているウェブサイトなどを渉猟しています。そういうときに、カメラやレンズの褒め言葉として使われているのがこの言葉。日本国語大辞典を見ると、60年代の始め頃から小説で使われ始めたもののようですが、今はこれなしに何事も語れないくらい、超大人気の(古くてすみません)言葉になっています。
ところでその意味は、というと、「材料が持っている感じ」、という定義にとどまります。ああ、やっと分かりました、感じです、感じ。中学校のころはやったフィーリングというやつで、これが漢語になって広がっているんです。「ものの感じをうまく表現している」と書けばいいものを、「質感」と書けば、意味深い、高級な感じがする、ということですね。これとよく似たのが「立ち位置」という言葉。立場、じゃないんです。立っている位置?物事が何らかの状況や社会的な立場、役割の中に占める位置、とでも書き換えればいいんでしょうか。これはまだ、辞典類には記載がないのではないかと思うんですが、もう、明鏡あたりが取り上げてるかな。もっともらしい、意味深げな言葉で、でもよく考えるとたいした意味がない、という点で共通しています。
さて、ここに載せた写真は、ゴミでも金属と一緒に詰め込まれると、それなりの「いい感じ」がするなあ、と思って撮ったものでございました。お目汚し、ご容赦を。
2012年4月13日金曜日
しつかん (質感) ??
2012年2月9日木曜日
雪!
今冬初めての雪です。2月は寒い。
ちょうど、週末の土曜日、明日は仕事がない、ということもあって、夜中に歩き回りました。はじめはうっすら、その後エチオピアレストランでおなかを膨らませたあと、パブへ、日付が変わって外に出たら8センチくらいは積もっているな、と思いました。
この写真は降り始めで、シグマの写りのいいレンズでとりましたが、も一つ40年前のレンズをつけたオリンパスで撮った写真はぼやけているのがなんともおもしろいと思いました。写りが悪いほうがかえって味があるというのは皮肉な話です。
2012年1月20日金曜日
青い鳥鍋
こんなことが起きるとは、夢にも思っていませんでしたが、鍋が紫に染まっています。近所のピープルズ・スーパーマーケットで珍しい色のにんじんを見つけ、これ幸と本日の鍋に投げ込みました。想像力の欠如というか、予期すべき結果であったのですが、色素が水に溶け込むことなどに考えも及びませんでした。
味は‥‥取り立てて変わらず、少しいつものにんじんよりも、甘かったかもしれない、という程度。最後に作ったおじやも真っ青、これがデジタルカメラであれば、色合いも調整できるところですが、いかんせん、色に目をつむっていただきました。
今度買うときはジュースにしようかな?
2012年1月3日火曜日
あけましておめでとう

Whitstable beach, Marine Terrace, a photo by i_noriyuki on Flickr.
残念ながら元旦の夜明けではありません。二日の午後3時,でももう西日は沈みかけていました。
ここは,ロンドンから東へ電車で一時間半, Kent 州のWhitstable という漁港のある町で,冬場の牡蠣が有名です。観光地としても知られているものの,南のBrightonのような大仰さはありません。ハイストリートに並ぶのはほとんど地元の小さな店ばかりで,我々が遅い昼飯を求めて入ったところもSamphire という間口の狭い,地味でしかし奥行きは意外にあるレストランでした。実は,ここにきた目的の半分は生ガキにあったのですが,いかんせんこの店のメニューにはなし。薫製の鮭を焼いたものを注文しました。これが味はなかなかで,あとで連れが調べたところ,地元では2番目に評判の良い店であったことがわかりました。一番目は,どういうわけかインディアンで,牡蠣料理の専門店ではないのが腑に落ちない。
この日は、昼過ぎに浜辺に着くと、幸運にも引き潮の時間帯で、汀は遠く沖まで伸びていて,さあ,2,300メートルはあったでしょうか,足下に注意しながら石ころのむき出しになったところを歩きました。風は冷たかったけれど,めったにない晴天,寒さも感じない。空は灰色がかった薄い碧で,イギリスでは奇跡的に雲もほとんどみられない、ここのところの雨続きで空気が澄んでいるのです。人影も少ないなか、さすがに,靴の中が冷たくなるのを我慢する根性もなくて,水際までは行きませんでしたが,どんどん歩いても果てがない感じがしました。さて,この足下を見ながらよたよたと歩くというのは,それはそれでいいことがあるもので,落ちているものに目がいきます。白い貝殻がまず,次いで魚の死骸やカニの殻,殻だけではなくて、ごろごろと大きな石ころのように転がっているのが牡蠣。石が(石にか?岩では無いのがみそ)へばりついているのを見つけて拾い上げ、上から落とすと貝だけが残りました。確かめると,しっかり中身が入っています。一つ二つ拾ってから,入れ物が無いことに気づき,ぬれた手で写真を撮りながら進む愚かさにも意識が向かったので,ひとまず陸地に戻りました。
この日の収穫は大振りの牡蠣十数個と赤貝に似たCockles。家に帰ってから,干涸びたレモンの汁をたらして鮮度の良さを二人で楽しみました。海水の味がしたような気がしました。
2011年12月13日火曜日
(広義の)いなか
ここは姉の家の裏に在る川の土手です。ちょっと前まで、簸川郡斐川町と云いましたが、今は出雲市と名をかえました。自分が生まれた家から歩いて30分というところでしょうか、僕のうちは平田市という町でしたので、隣町だったんですが、例の大合併なるものがあって、平田の名前は消えてしまい、出雲市に。ということは、この場所も自分の「田舎である」と言ったところで問題ではなくなった、ということか、さて、よくわかりませんね。
写真の向かいにうっすらと写っている山々には、それぞれ名前がついている(この地からの呼び名)そうで、この山並みのその向こうに銅剣なんぞが大量に見つかった荒神山などの遺跡群が並んでいます。簸川郡という名は「火の川」からきたという説があって、つまり、たたらですね、斐伊川の上流で鉄が作られていたからとか、何とか。この斐伊川、子供の頃の発音では「ふぃいくわわ」とあり、母音が/i/ でも/u/ でもなく、中間的なとても難しい音で、聴き様によっては、「ふぇえ」とも聞こえました。これを共通語式に書いてしまうと「へえかわ」となります。今の文字に表せない、奥ゆかしい古い発音がまだ生きているんです。そういう名前が、消えてしまった。これでは、八岐大蛇も浮かばれない、そういうことを思い起こすような、というのは嘘ですが、子供の頃とかわらぬ屋根屋根の並び、山の陰はまだ残っておりました。
2011年9月14日水曜日
アーモンドといちじく
ギリシャのロドス島産です。それに間違いないといえるのは、野原に生えているやつを頂戴してきたからで、決して値札についた情報を見ていっているんではありませんよ。このいちじく、小さいけれどなかなかの甘みで、木の上で熟すとこういう味がするのかと感激したのでした。アーモンドの写真からは皮(偽果)がついてるのが見えるでしょう。梅や桃ならここが大事なところだけど、こいつの場合は干からびるだけ。石ころを拾ってきて、えいやっと割って食べました。
今年のロンドンは本当に夏がなかった。公園でのバレーボールも半分くらいがお流れだった。雨上がりの午後の虹(けして詩的な意味ではありません、実際、午前中大雨、昼過ぎから晴れだして運がよければ夕方雲間からの虹という繰り返しということ)だけが慰みものでした。誘惑に勝てずにギリシャにのこのこと逃げ出した言い訳です。
2011年8月16日火曜日
夏の終わり
ほんとに夏らしくない夏でした。この写真も雨上がりの夕方、虹が出てると騒ぐので、急いで窓からとったのでした。30度を超えたのがわずか一日、今週は、20度を切っていて、半袖では外を歩くのが肌寒い。これでしばらくは、マラリア上陸の心配もないか、などと思っていたら、豈図らんや、森歩きをすると蚊に出くわしました。マラリアをもたらす奴ではないとは思うものの、連れはアレルギーがあるそうで、刺されて腕が膨れ上がりました。
日本では盆も終わり、でもまだ暑い盛りは続き、テレビでは戦争関連の特集が多かったように見受けます。生の番組は見られませんが、案内を見て思うのは、過去のこととして話ができないのは当然としても、情動的な扱いが多いように感じてしまいます。戦争が日常の国に生きているからかもしれません。
今、2年前まで軍隊にいたという生徒さんが二人、10代と20代、どうして日本語なんか勉強したいんだろね、と思うけど、ま、ありがたい話。