2014年10月24日金曜日

柿食えば???


 先月、サニンデールからウィンザーまで歩きました。15キロくらいで、その道中の半分はバージニアウォーターという、 人為的に作った池を中心にした公園です。そこで、めったに見つからないキノコを見つけました。ここは、王室が所有している由で、採集は許可されていないとのこと、残念至極。これ、おいしいらしいんです。英語の名前は"Cauliflower fungus" です。
 さて、秋も深まり、ここのところイギリスにもたくさんの柿が輸入されて、売られています。全部スペイン産でしょうが、角張った渋柿に加え、平核無柿、富有柿も最近仲間入り。選択肢が増えるのは、うれしい限りです。さて、一つ気になること。
 子規の有名な句です。「柿食えば」はいい、次の「鐘が鳴るなり」の「なり」がわからない。誰か知っている人教えて下さいな。「なり」には二つ有りますが、そのどっちをとっても意味が通らないんです。「鳴る」は四段活用だから、これが終止形か連体形か決められません。もし終止形なら、現代語に相当するとすれば、「そうだ」にでも当たるんでしょうが、そうすると、「柿を食えば鐘が鳴るという話だよ、法隆寺は」というようなことになって、子規は法隆寺にいるのではなくて、そういう話を詠んだだけということになる。茶屋で柿を食ったら、たまたま鐘が鳴った、という逸話は本当かどうか、何の根拠もない作り話らしい。もし「鳴る」が連体形であれば、「柿を食えば、鐘が鳴るのである」というような意味で、これも意味が通らない。いちばん有りそうな解釈は、語数が足りないからただ足しただけで意味が無い、というもの。その場合は、子規もたいしたことはない、ということになりますが、さて、誰か、教えて下さい。

追記:考えた末、これはやはり、終止形に続く、なりではないかと思うようになりました。昔から、「鳴る」に続くのは伝聞とか推定とか言われる方であったからです。意味としては、「柿を食っていると、おや鐘が鳴っているようだよ、法隆寺だなあれは」というような意味になるのかな?

2014年8月29日金曜日

「寄り添う」ねこ、鼻を利かす犬




ポルトガルの浜辺の町で昼寝をしていた身内らしい、「寄り添う」猫  世知辛い世の中、せめて人のつながりは大切にしたいということでしょう、この「寄り添う」という言い回しがここでもそこでもあそこでも、今日も明日もあさっても、垂れ流されています。たとえば、次のよう。「顧客の要望に徹底して寄り添い、業界の常識にとらわれないため、『型破り』とも言われる。」これは、朝日新聞デジタルで見つけた(凄腕つとめにん)大山雄也さん 9年で植えた緑、1万8000本、という記事(8月25日付)からとった、この大山さんという方への褒めことばです。いまや、「背中を押す」と並ぶ、好感度ナンバーワンのことばになっています。でも、この「顧客の要望というものに寄り添う」って、どうやったらできるんだろう、と思います。要望には「応える」んじゃなかったかな?ここまで、まるでインフレのように切り札の決めことばを使いすぎると、いずれ、どんどん価値が下がって行って、いずれまた違うはやりことばに置き換えられる運命にあると感じました。次は何か、予想しませんか?
 さて、今度は犬、活躍する警察犬の記事(同じく朝日、8月28日付)ですが、ここに、「警察犬が幅広い分野で鼻を利かせている。容疑者の足取りを追うだけでなく、違法薬物や拳銃の捜索など『一匹二役』をこなす犬が登場。」とあった。気がつきましたか?「鼻を利かす」ということばはないけど、あっ、「幅を利かす」だ。僕は、これを発見したとき、本当に感動しました。これこそ、日本語の伝統にのっとった由緒正しいだじゃれです。寄り添う猫と鼻を利かす犬とどっちがお気に入りでしょうか。
 
追記:本日、2014年11月19日(新聞記事は20日付け)、朝日新聞の記者が書いた記事で、次のような用例を見つけました。「地図を見てみると、バラノ湖は海に寄り添うような湖で、浜名湖とちょっと似ている。」。書き手は、河野正樹、ヨーロッパ総局員(欧州スポーツ担当)、2000年入社、とあります。これはもう、理解の範囲を超えた表現です。湖が海に寄り添う、とはいったいどういうことを意味するのか?ただ、??????と書く以外にすることがありません。2000年入社となると、30代半ばでしょうか。こういう記事を書いた人、校正でチェックできなかった人、朝日新聞よ、そういう社員ばかりでいいんですか?

2014年8月2日土曜日

右と左、カニの手に方向性(?)はあるか

 前回に続き、ポルトガル、Taviraの話。我々が泊まったホテルの部屋にあった訪問者の写真です。右目と左目の色が違います。正確には虹彩の色のちがいということでしょうか。この猫の子供と思われる少し小さめの、白地がない猫もこの日、一緒に居ましたが、数日後、今度はひとり(一匹)でドアをノックして(正確には塀を飛び上がって)、部屋の中に入って来て、1、2時間ほど一緒に過ごしました。夕飯を共にしたい、ということではなかったようで、せっかく訪ねて来たんだからと差し出した牛乳やチーズには関心を示さず、連れの膝の上に乗ってスキンシップを楽しんでいったようです。
 さて、この、右と左に関連して。たまたま次のような文が目についたので、引用します。「現在公開中の「思い出のマーニー」で監督を務めた、米林宏昌監督が生出演します。最新作に込めた思いや今後目指していく方向性など、米林監督がたっぷり語ります。」これはNHKの放送予定の番組案内の一部ですが、さて、この「方向性を目指す」ことが果たして可能なのか、とても気にかかります。辞書を引いてみると、「方向性』という語は岩波国語辞典、明鏡、大辞林ともに記載がない。大辞泉と日本国語大辞典にはあって、後者のものを引用すると「進むべき方向や目標を持っている状態。」とあり、1964年の安部公房の使用例がついていた。ついで、WIkipediaに「電磁は、一般的に無方向性鋼板方向性鋼板の2種類が使われている」とあった。ははあん、と合点が行きました。これは、「時系列」が単なる「時間の流れ」の意味と誤用されているのと同じ類いで、「方向」の意味と同じ意味で「方向性」を使っているんでしょう。「方向性」の方が「方向」より気取った言い方に聞こえるから使ってみたい、という心理です。気取ってはいるけど、意味が変だ、とは気がつかないのかな?
 さて、おまけの写真、ここに写っているカニさんの手(足か?)は一番前の右手が異様に大きくなっています。これがどのカニも同様に右手のみが大きいかというと、そうでもなくて、左手が大きいのも混じっていました。結論、「このカニさんの手の大きさには方向性はない」、と。

2014年7月22日火曜日

アサリとハマグリと赤貝とタコ


 初めて、ポルトガルに行きました。Algarveと呼ばれる、南部の沿岸地域で、その東端、スペイン寄りの街、Taviraというところ。海岸沿いの地域はすべてParque Natural da Ria Formosa(台湾をFormosaと呼んだのはポルトガル語だったんだね!)に指定されていました。砂州が折り重なって、島になり、入江になって、入り組んだ複雑な地形をつくり、そこに塩田が作られ、また塩分を含んだ湿地帯ができ、海流が満潮時に流れ込んで海岸に並行した川のような急な流れをつくり、陸となったところに植物が生い茂り、そこに生き物が住み着いて、とまあ、なかなか言葉では表せません。ということで、空から見た写真。


 ところで、ここの海辺の砂地は「鳴き砂」で、条件のいいところでは、結構な音が出ます。が、誰もそういうことに気を止めている者はいず、足摺(本来の意味ではない)をして興奮していたのは、自分たちだけでした。日本では、「琴ヶ浜」などと言って名所になり、自分もそれを求めて、過ぐる年、温泉津にまで行ったのを思いだします。
 それで本題、砂浜に打ち上げられた貝殻に何やら見覚えがある、アサリ?あれ、ハマグリ?そんなはずが、しかしどう見ても日本のものと同じだ、などと思っていたら、帰りのスーパーで"Japanese clam"という表記を発見、あとで調べると日本種がどういう経過でか持ち込まれて、地中海の沿岸部でも繁殖しているような話。ハマグリも混じっているようで、あの特有の模様、殻の厚みとやわらかな形も日本のものと思います。日本では絶滅寸前なのに。で、アサリは買ってパスタと一緒に胃袋に入れました。入り江で拾った赤貝は別種。タコは?ということで、次のが「タコの首都」を自称する街の一皿。今回は、言葉に関わりのないことで、おそまつさまでした。


2013年12月9日月曜日

背中を押さないで

Pont De Pierre by i_noriyuki
Pont De Pierre, a photo by i_noriyuki on Flickr.
 当世、自分で自分のことを決めるのが億劫になったのか、この「背中を押す」というのがずいぶんとはやりの言葉になっています。何か重要な転機に、誰かの助言を得たとか、他人の勧めに従ったら、それまでに予想もしなかったおもしろい変化が生じたとか、はては、高い買い物を決断するにしきれないから、踏み切るためのあと一押しが欲しいとか、迷える子羊にとって、この「背中を押し」てくれる人たちというのはまことにありがたい存在である、ということなのでしょう。
 でも、川端で背中を押されたら、水の中に落ちてしまいます。駅のホームで一押しされたら、怖いことになるなとぞっとしますが、世の中、何でも一押し欲しい人がいっぱいのようです。押す側の立場に立って考えれば、自分のことは知らず、他人が押して欲しがってるんだから、そのお手伝いをするのは決して悪いことじゃない、ということなんでしょうか、自分の財布は傷まないし。でも、自分で決められることを自分で決められないというのはみっともないことだと思わないんだろうか、などと、いらぬ心配をしていまいます。ままならない世の中、せめて、自分で選んだんことには、文句は言うまいと思いたい、という、悲しいあきらめの心情の反映です。何にしても、そういうのを書き物に書くのは、みっともないから、もう止めよう、と言いたい、お願いだから。
 写真は十一月に訪れたボルドーの川岸です。朝、霧が立って、川面を覆い、水面近くを水鳥が横切っていました。

2013年11月29日金曜日

はいじ、ハイジ、廃寺?


 今年の夏、島根に帰省し、その最後の日に松江城に行きました。この写真は敷地内にある稲荷神社の狐です。その神社の参道を歩いていると、後ろから女の声で、「真ん中を歩くな!神さんが通るところだ!」と鋭い声がして振り向くと、20歳くらいの女性とその連れが我々の後ろに続いていました。どうも、我々に参道の中心部を歩くな、と言いたかったようなのですが、その声はこの国の若い世代の迷妄(めいもう)を本気で信じたがる心性(しんしょう)を象徴しているようで、本当にやり切れない思いがしました。
 さて、話かわって、昨日、ロンドンの日本語センターでオックスフォードブルックス文庫立ち上げのイベントに参加してきました。日本語学習をしている大学生を対象に設定した読み物を提供しようとする試みです。日本語を勉強し始めた人たちにとって、自分たちのレベルに見合った読み物を探すのはなかなか大変で、独習で読める読み物を古典を書き直したり、昔から伝わる話を語彙(ごい)と文法に制限を加えて読みやすく提供しようとする試みです。私はその努力が大変なものであることを知っていますので、イベントにいそいそと出かけ、入り口で初級用一セット購入しました。そこで本題の一つ、語彙のコントロールです。シリーズは現在A2レベルが2部できていて、それぞれ、短い話が5冊セットになっており、その一つの作品が「廃寺の謎(なぞ)」。当然この「廃寺」も「謎」も当該(とうがい)レベルには入らないもので、日本の日常でも「廃寺」の方はまず使いません。語彙のコントロールがいかに難しいか、ということですが、それを補足するための脚注類(きゃくちゅうるい)はついていません。多分、日本語能力試験1級を通った人が読んでも、直ちに理解できる語彙ではないのではないか、という印象を受けました。
 二点目、これが最も気になった点、その内容です。不審(ふしん)な電話を受け続けるという若い男の子が荒れ果てた寺の境内(けいだい)で見つけた水子(みずこ)の地蔵(じぞう)を立て直してやったら、不審電話が止まった、というお話です。冒頭に書いた、日本の迷妄にすがる精神性を体現した小話で、そういう点では、現代の日本文化の紹介にふさわしい、と言えるのかもしれません。私は、物事を考えることを放棄し、迷妄にすがって生きる人がどんどん増えている日本の現況が悲しいので、そのような思いを監修の先生に伝えましたところ、そういうことは作者に言ってください。」との返事でした。今度作者に直接伝えようか、と本気で考えています。

2013年11月2日土曜日

夕暮れどき

Centre Pompidou, Paris by i_noriyuki
Centre Pompidou, Paris, a photo by i_noriyuki on Flickr.

 「かはたれ時」というのと「たそがれ時」というのは、時間帯が違うんだそうです。私はずっと同じものだと信じ込んでいました。もちろん同じ時刻を表すという使い方もあるような話です。辞典を調べてみると、「あれはたれ時」、とか、「あれはたそ時」というのも見つかりました。こういうのは、もう使われなくなったのが残念です。自分がふだん使うのは「夕暮れどき」です。
 ところで、こないだ、図書館においてあったので、水村美苗さんの本を2冊借りました。正直に言うと、この人のものは読もうという気にならなくて、手を触れたことが無かった、もしこの図書館の新規購入図書の棚になかったら、死ぬまで読まなかったことと思います。で、感想は、予想通り、我々の世代の文章表記能力の低さを改めて確認するものになりました。ご本人が一生懸命書こうと努力しているのがわかる分、余計に悲しい思いがします。また、自分の頭に浮かんだことをとにかく全部書き表そうと努めている跡が読み取られて、痛々しい感じがします。共有できる部分は、近年の日本語の言語表現が貧しくなっているという指摘です。この人と一つ違うと言えることは、ことばを身に付ける時期に、出雲の在郷で、そして小学校に入ってからは北河内で育ったことで、アメリカで暮らした水村氏が読書から得たようなことばの切れ切れを、直接、身内や近所の人たち、そして教会に来る信者さんの語り口と立ち居振る舞いから吸収したという点です。文字からと目や耳からの違いは大きいと思う。もちろん、自分のことばにならなかったのはお生憎様ですが。
 写真に写っているのは、たぶん、日本人の親子で、観光に来たんでしょうか。歩く早さ、動きが違うからか、このような写真の効果になって現れました。