2011年1月22日土曜日

私の店

 こういう表現は、意味が曖昧で、いったい何のことやらと思いません?有名な「の」の曖昧さです。そこで説明を加えると、ここは自分が加わっている会員制のスーパーで、£25の加入金と月一の労働義務と引き換えに、10%の割引がもらえる仕組みになっている近所の、いえ、角を曲がったところにある店です。ということで、「私がふだん使う店」でもあれば「私が会員になっている店」でもあり、「私が一部所有者のつもりになれるかもしれない(本当はそんなことはありえませんが)店」、そして、「月一度働かされる(しかも無給で)ご主人様」でもあります。売っているものは大したものはないんだけど、唯一気に入ってるのは、珍しい山取りきのこを扱っていること。これがために、ここに加入しているといってもいい。いや、も一つあった、紫色のジャガイモです。写真に映っている黄色いTシャツを着た人が発起人のアーサー氏。何でも、どっかのレストランの所有者だそうな。年末の寒波のあおりを受け、客足が途絶えてしまい、今月で閉店の危機に瀕しておるとかで、本人が必死で支えようとしているようです。
 何とかなって欲しいなあ、とは思っていますが、さてさて。

 追記;
思いあまったアーサー氏、テレビ局に頼み込んで放映を早くしてもらいました。結果、放映の翌日から入会者が相次ぎ、ついに目標を大幅に上回る七〇〇名の会員数に。次はグラスゴーに出すという話も。

2010年12月3日金曜日

雪が


Lamb's Conduit St
Originally uploaded by i_noriyuki
 ここ数日、朝カーテンを開けては、変化はないかと確認していたのが、ついに本当になりました。まず火曜日の朝、アスファルトの上はまだ黒々としてはいたものの、粉雪がちらついて、車の上に、ほんのうっすら白いものが見えました。そこで誰もが期待するのは仕事がなくなること、とはいってもこの程度では休みになりません、学校は別として。しかし期待は期待としてあるもので、何とはなしに仕事に手がつかず、そうこうするうちに生徒さんから、「足下が悪いなら、授業を変更してもいいけど」という問い合わせが入りました。実はこのお誘い、大助かりで、この日受け取り予定の届け物を手にすることができるというもの。さらに午後、もう一件、全く同じ連絡が、ただしこれは延期しても結局休みにならないから、というので授業を行うことになりました。「ほんのうっすら」だから、行き来に障害があるはずがないのはわかってるんです。
 水曜の夜になってまた雪が降り始め、今度は気温が零下に下がったのも手伝って、翌朝には市内全域で雪化粧となりました。ただし中心部は、わずか数センチ、少し街を外れると5,6センチぐらいまで、これは立派な雪です。本物の雪ということで、学校はほぼ全校が休校、交通網は半壊滅状態。そうはいっても自分が乗る列車には大した影響があるはずがない、と思って電車に乗ったのが大きな誤算でした。ロンドンの電車を甘く見てはいけない。写真にある程度の雪です。これで何ほどのことが、と誰でも思うでしょう。「電車が遅れて、ごめんなさい」というアナウンスを聞き流して、乗り込んだこの朝、ふだんなら2分ですむ行程を、たっぷり1時間半、車上で過ごすことになりました。この日に延期した授業に間に合わなかったのはもちろんのことでありました。

2010年10月20日水曜日

「形式名詞」って、何?


Chancery Lane station
Originally uploaded by i_noriyuki
 これがわからないんですね。つい最近まで、ぼんやりとわかったつもりになってたんだけど、ちょっと宿題をもらって調べたところ、意見がまちまちで、まだ合意もできてないし、それほど深い研究もできていないような感想を持ちました。ま、いつものことですが。
 宿題は、「もの」についてだったので、それについてわかったことをメモしておきます。「もの」には、「実質名詞」としての使い方があります。「こんなとこに、物を置くんじゃない!」という漠然と物体を示すタイプから始まり、「物がいい」の品質、「ものを言う」、「ものに憑かれる」、そして「ものにならない」のような慣用的なものまで、奥が深い。次いで、修飾語によって初めて意味内容が与えられるタイプで、「私のもの」、「食べるもの」、「十年前に書かれたもの」の類。このタイプはほかの実質名詞に置き換えができますが、これがさらに抽象度が高まると、「誰にでもできるもの」、「大したもの」、「恋というもの」のように一般的な「事柄」とでも置き換えるしかないものになる。ここまでくると、情意的な内容が簡単に上乗せされるようになり、「これが、恋というものだ!」などと、憂いを帯びた溜息をつきながら口にしなければなりません。
 ところで、私の意見では、ここまでが「形式名詞」と言えるものであって、その先の〈物事を体言化して捉えかえすはたらき〉のほうは〈形式名詞〉と呼ぶのをためらう気持ちになります。「悪いやつはどこにでもいるものだ」、「昔は体重も尺貫法で量ったものだ」、「あの人には困ったものだ」などなどは、ほかの「実質名詞」に置き換えがきかないし、使わなくっても意味は通る、でも「一般的なものとして客体化して捉える」ことで、情意的なもの、聞き手目当ての働きかけなどを上乗せできるようになっています。「準体詞」とでも名前をつけたいな。そして最後に、〈客体化して説明のムードを付け加える〉やつ。「負けたのが悔しかったものと見える」、「だって嫌いなんだもん」。これは、終助詞でも、接続助詞でもないと思うけど、なんて名前をつけたらいいんやろか。これは、「文末外接形式」の一つ、なんていうような長い名前になりそう。

写真は、地下鉄駅で見かけたちょっと怖いポスター。誰の頭の上に落とすんでしょうね。

2010年9月15日水曜日

芹!

 これで2回目です、芹をヨーロッパで見かけたのは。最初はカナリア諸島のLa Gomera、3年前のこと。島の中央部を流れる谷川に、大量に生えていたのを見つけ、少しだけ頂戴して食べてみました。ここのものは生育がすこぶるよくやわらかくて、大きなものでした。正直言って、まさかこんなところにあるとは思いもしませんでした。
 そして今回、Kos です。山からきれいな水が用水を通って海辺まで流れていて、それが海辺の後側にちょっとした水たまりを作っていて、そこに生えていたんです。生育はよくなくて、少し持ち帰ったけど結局途中でしおれてしまって食べられませんでした。でも、ちゃんとかじって味と香りを確かめたので、間違いなく芹。ウィキペディアで調べたところ、イタリアでも食されているそうな。だったら、ギリシャに潜んでいても、まあ、いいのかな。

2010年9月3日金曜日

あれれ、こんなところに


Pool behind Tigaki beach
Originally uploaded by i_noriyuki
メダカがいる!と思ったけれど、たぶん近縁種なんでしょう。ギリシャのKosという島、ロドス島のそばにあります。その海辺と元塩田とをつなぐ水路のようなものが干上がっていた中に、一部水たまりができていました。茶色い水で、何も期待していなかったのに、よく眺めると魚がいるではないか。こいつらは賢いのかどうなのか、ぼくが近づくと向こうも近寄ってきてこちらをうかがう様子、カメラを向けるとその下に集まってきました。さてどちらが観察されていたのやら。
 さてこの翌晩、いえ正確には未明になるのでしょうか、宿泊していた部屋に就寝中忍び込んだものがいたようで、ドアを叩く音に起こされると軒並みの部屋の金銭がなくなっているとのこと。うちの部屋ではぼくのiPodと連れの財布の中身などが消えていました。買ったばかりのカメラは無事。ロンドンに帰る便に乗る前に急いで地元の警察署に行きましたが、ギリシャの警察がいかに効率的な仕事をするか、とくと見せていただきました。10分で仕上がるはずの書類に軽く2時間。これと対照的だったのがタクシーで40分相当の道を高速並の20分で空港へ。2車線の道を3車線で使うハイテク運転でした。

2010年7月31日土曜日

外食のかえりに


Asakusa Restaurant
Originally uploaded by i_noriyuki
久々に日本食のレストランに行きました。日本食では、実のところあまりいい経験はないんです。とくに、うちの近くのレストランでは、さんざんな目に遭っていました。冷凍庫から電子レンジを経てきたからから、かちかちの焼きおにぎり、とか、ジューサーで作った大根おろし(液体抜き)とか。で、今晩行ったとこは八年ぶりの二回目でしたが、これがけっこうおいしかった。私は刺し身定食、£10.50なり、ちゃんとした刺し身でした。気を良くして、近くのパブにより、そして帰りに写真撮り。
 カメラを構えると、ふだん目に入らないものが目に付きます。ロンドンの町並みも、まあ、捨てたものではないかな、と思ったことでした。

2010年6月27日日曜日

ブログのことば?

 こういう所に、ああだこうだと書く事は大変に難しい、ということははじめから分かっていました。発話の要素の一つ、「話し相手の確立」という問題がひっかかるんです。もともと、日記のようなものは、一度として書いたことがないし、たとえ書いたにしても、そういうものを公表を前提にして文の体裁を作るというのは、大きな矛盾でしょう。日記であるならば、自分を話し相手として、さしあたり設定して、心覚えのようなものとして出来事を文字にするということになるんだろうと思います。そういうものの中で、自分が見て一番面白いように思ったのは、本居宣長が性交渉の回数を日記に記録していたという話。本居さんもいい災難で、だれに読ませるはずもなかった日記が後世、研究の対象にされて、そんな話まで活字になって暴露される羽目に陥るとは思いもしなかったでしょうし、ま、そんなことをここで書いたのも失礼だったかな?言いたかったことは、日記は他人が読むことを知ってたのでは書けやしないということです。そこで、問題にもどる。ブログの文章は他人の目に晒すことが前提であるにも関わらず、そこに書き連ねてあるごたごたしたものは、たいてい書き手の日常の記録のような、言ってみればよその人からしたら大した関心も呼び起こさないもので埋まっているということだし、そのようなものを読ませることで他人の時間を無駄に使ってしまうというのもいかがなものか、そう考えると、まあ、ブログの文章というのは、本当に書きにくいものだと思うのでした。

 写真は先の日曜日、近くの公園でちょっとした日本食メインのパーティをした時のもので、このお稲荷さんは、ある人の奥さんお手製(正確には本人がすし飯を作ったらしい)だそうです。久々に、本物を食べることができました。