2016年10月31日月曜日

奥深い「行く」と「来る」

ギリシャ、ザキントス島 重油がわき出、そこに囚われた鳥の死骸(右端)

 ここ数日の間に、「行く」と「来る」について認識を新たにする用法にぶつかりました。まず、一つめは一昨日、ロンドンに桃井かおりが来るというので、いそいそとトークを聞きに出かけました。「火」という題名の新作映画をひっさげて、公開前の事前上映会をするのにともなう機会で、国際交流基金が企画運営していました。そこでのやりとりで印象に残った一言。会場からの最後の質問者が次のような表現を口にしました(おぼろげな記憶)。

質問者(女性)
(映画で主人公=桃井かおりが来ていた服について)あの服を見た瞬間、この女、来ちゃってるな感があったんですが、あの服はどうやって見つけたんですか。
――桃井かおり氏
あの服、私のなんです。どういうわけか何年も前からある。一枚だけじゃなく、色違いも持ってる。

 二つめは、今朝見た朝日新聞デジタル版の厚切りジェイソン氏とREINA氏の対談で、引用中Jは前者、Rは後者です。

朝日新聞2016年10月21日掲載記事「トランプ氏の発言、厚切りジェイソン&REINAが斬る」
J ピリピリで始まった
R よく見ると、ヒラリーの方が行っていないんだよね。トランプは待っているんだけど、ヒラリーがこない。そっからお祭りじゃないけど、ほんとエンターテインメントになった

 どちらも行く、来るの着点は口にされていないけれど、意味は瞬時に分かります。分かるということは、このような用法に慣れ親しんでいる証拠ですが、とある究極的な精神状態、あるいは感覚にいたるという意義でしょう。そう思って日本国語大辞典第二版を調べると、「行く」の項に、高齢に達する、死ぬ、満足・納得する、性交の快感が絶頂に達する、とあります。さて、では、この二例はどうかというと、一つめは常軌を逸した状態に達した人格、二つめは興奮した、戦闘状態にふさわしい精神に達するとでもいうような意味でしょうか。どちらもあまり褒められたものではありません。これをこのように長々と説明的に書くと発話のおもしろみが失われ、発話者の「感覚的鋭敏さ」のアピールがにぶるということでしょう、「行ってる」「来てる」の一言で全て済ますことができ、また「行ってるな感」という造語も簡単に作り出すことができます。何より、それを聞いた側との共有感が「たまらない」。

 ここまで書いて、はて、何を共有したいというのだろうか、という疑問がわきます。人をあざ笑い、異様なものとしておとしめて、その感覚を共有する楽しみです。桃井かおり氏はそれを見事に受け止めて、「それ私の服」と返答したわけですが、さて。この話の教訓は口に気をつけなさいということでしょうか。自分も立派な日本人ですから、いつもやっているんだろうと思います。