2013年12月9日月曜日

背中を押さないで

Pont De Pierre by i_noriyuki
Pont De Pierre, a photo by i_noriyuki on Flickr.
 当世、自分で自分のことを決めるのが億劫になったのか、この「背中を押す」というのがずいぶんとはやりの言葉になっています。何か重要な転機に、誰かの助言を得たとか、他人の勧めに従ったら、それまでに予想もしなかったおもしろい変化が生じたとか、はては、高い買い物を決断するにしきれないから、踏み切るためのあと一押しが欲しいとか、迷える子羊にとって、この「背中を押し」てくれる人たちというのはまことにありがたい存在である、ということなのでしょう。
 でも、川端で背中を押されたら、水の中に落ちてしまいます。駅のホームで一押しされたら、怖いことになるなとぞっとしますが、世の中、何でも一押し欲しい人がいっぱいのようです。押す側の立場に立って考えれば、自分のことは知らず、他人が押して欲しがってるんだから、そのお手伝いをするのは決して悪いことじゃない、ということなんでしょうか、自分の財布は傷まないし。でも、自分で決められることを自分で決められないというのはみっともないことだと思わないんだろうか、などと、いらぬ心配をしていまいます。ままならない世の中、せめて、自分で選んだんことには、文句は言うまいと思いたい、という、悲しいあきらめの心情の反映です。何にしても、そういうのを書き物に書くのは、みっともないから、もう止めよう、と言いたい、お願いだから。
 写真は十一月に訪れたボルドーの川岸です。朝、霧が立って、川面を覆い、水面近くを水鳥が横切っていました。

2013年11月29日金曜日

はいじ、ハイジ、廃寺?


 今年の夏、島根に帰省し、その最後の日に松江城に行きました。この写真は敷地内にある稲荷神社の狐です。その神社の参道を歩いていると、後ろから女の声で、「真ん中を歩くな!神さんが通るところだ!」と鋭い声がして振り向くと、20歳くらいの女性とその連れが我々の後ろに続いていました。どうも、我々に参道の中心部を歩くな、と言いたかったようなのですが、その声はこの国の若い世代の迷妄(めいもう)を本気で信じたがる心性(しんしょう)を象徴しているようで、本当にやり切れない思いがしました。
 さて、話かわって、昨日、ロンドンの日本語センターでオックスフォードブルックス文庫立ち上げのイベントに参加してきました。日本語学習をしている大学生を対象に設定した読み物を提供しようとする試みです。日本語を勉強し始めた人たちにとって、自分たちのレベルに見合った読み物を探すのはなかなか大変で、独習で読める読み物を古典を書き直したり、昔から伝わる話を語彙(ごい)と文法に制限を加えて読みやすく提供しようとする試みです。私はその努力が大変なものであることを知っていますので、イベントにいそいそと出かけ、入り口で初級用一セット購入しました。そこで本題の一つ、語彙のコントロールです。シリーズは現在A2レベルが2部できていて、それぞれ、短い話が5冊セットになっており、その一つの作品が「廃寺の謎(なぞ)」。当然この「廃寺」も「謎」も当該(とうがい)レベルには入らないもので、日本の日常でも「廃寺」の方はまず使いません。語彙のコントロールがいかに難しいか、ということですが、それを補足するための脚注類(きゃくちゅうるい)はついていません。多分、日本語能力試験1級を通った人が読んでも、直ちに理解できる語彙ではないのではないか、という印象を受けました。
 二点目、これが最も気になった点、その内容です。不審(ふしん)な電話を受け続けるという若い男の子が荒れ果てた寺の境内(けいだい)で見つけた水子(みずこ)の地蔵(じぞう)を立て直してやったら、不審電話が止まった、というお話です。冒頭に書いた、日本の迷妄にすがる精神性を体現した小話で、そういう点では、現代の日本文化の紹介にふさわしい、と言えるのかもしれません。私は、物事を考えることを放棄し、迷妄にすがって生きる人がどんどん増えている日本の現況が悲しいので、そのような思いを監修の先生に伝えましたところ、そういうことは作者に言ってください。」との返事でした。今度作者に直接伝えようか、と本気で考えています。

2013年11月2日土曜日

夕暮れどき

Centre Pompidou, Paris by i_noriyuki
Centre Pompidou, Paris, a photo by i_noriyuki on Flickr.

 「かはたれ時」というのと「たそがれ時」というのは、時間帯が違うんだそうです。私はずっと同じものだと信じ込んでいました。もちろん同じ時刻を表すという使い方もあるような話です。辞典を調べてみると、「あれはたれ時」、とか、「あれはたそ時」というのも見つかりました。こういうのは、もう使われなくなったのが残念です。自分がふだん使うのは「夕暮れどき」です。
 ところで、こないだ、図書館においてあったので、水村美苗さんの本を2冊借りました。正直に言うと、この人のものは読もうという気にならなくて、手を触れたことが無かった、もしこの図書館の新規購入図書の棚になかったら、死ぬまで読まなかったことと思います。で、感想は、予想通り、我々の世代の文章表記能力の低さを改めて確認するものになりました。ご本人が一生懸命書こうと努力しているのがわかる分、余計に悲しい思いがします。また、自分の頭に浮かんだことをとにかく全部書き表そうと努めている跡が読み取られて、痛々しい感じがします。共有できる部分は、近年の日本語の言語表現が貧しくなっているという指摘です。この人と一つ違うと言えることは、ことばを身に付ける時期に、出雲の在郷で、そして小学校に入ってからは北河内で育ったことで、アメリカで暮らした水村氏が読書から得たようなことばの切れ切れを、直接、身内や近所の人たち、そして教会に来る信者さんの語り口と立ち居振る舞いから吸収したという点です。文字からと目や耳からの違いは大きいと思う。もちろん、自分のことばにならなかったのはお生憎様ですが。
 写真に写っているのは、たぶん、日本人の親子で、観光に来たんでしょうか。歩く早さ、動きが違うからか、このような写真の効果になって現れました。

2013年8月28日水曜日

山三(ヤマサン)正宗

酒持田本店 by i_noriyuki
酒持田本店, a photo by i_noriyuki on Flickr.
2年ぶりで帰ったいなか町、島根県出雲市平田町(以前は平田市平田町だった)の造り酒屋です。酒持田本店醸造というのが正式な会社名のようで、この写真に並んでいるのがここで作られるお酒の一覧ということでしょうか。建物の向かいでは、醤油の醸造も手がけていて、それが流れてくる匂いで分かりました。中に、赤い色のものもあったり、古酒も並んでいます。正直に言って、これほどの種類があるとは思っていませんでした。買い手を広げるための努力もあるものと思います。
 実は先日、持ち帰ったお酒とロンドンで入手したいくつかを放出して飲み比べをしたところ、集まった人々の一致した意見として、ここの純米吟醸原種が一番おいしいということになりました。巷間に「幻の銘酒」と言われるだけのことはあります。でもでも、残念至極なことに、この酒が飲めるのはここ平田市周辺以外にはありません。同じ島根県内はおろか、隣町の出雲や松江の町でもおかれているところは少ないのです。まして、遠路はなれたここロンドン、誰か、評判を聞き込んで輸入してくれないものだろうか、と願うこの頃です。今は消えてしまった「世界の花」(石橋酒造)がどうしたわけか、10年前にこの地で売られていたのですがねえ。

2013年7月8日月曜日

「-が」のはたらきについての疑問

SDIM7025 by i_noriyuki
SDIM7025, a photo by i_noriyuki on Flickr.

昨日、30度になんなんとする陽気に誘われて、町歩きに出かけました。もちろん、カメラ同伴で。この写真は、60年代に作られた古いドイツ製のレンズで撮りました。あとで気がついたけど、スイレンの周りに線虫か何かのようなものがこびりついています。何だろね?

さて、気になっている件を一つ。

みんなで、すき焼きを食べました。

という文には、「が」を入れることができません。「すき焼きを食べた」主体は?、と聞かれると、事実としては「みんなが食べた」ということになりますが、これを、次のようにすると全く違う意味の文になります。

みんなが、すき焼きを食べた。

同様に、次の各文も意味が違い、置き換えはできません。

みんなと、すき焼きを食べた。
みんな、すき焼きを食べた。

これを要するに、日本語の文では、主格を表示する形式が「が」に限られないばかりでなく、それぞれの形式に伴う情報が異なっていること、そして主格についていえば、それを明示することにこだわらない文があること、あるいは主格の表示が不要である文があることなどがわかると思います。そう考えると、「が」が主格表示の働きを持つ格助詞である、という考え方に問題があるのではないか、という疑いが生じます。どう思います?

2013年6月18日火曜日

フランス同性婚法成立万歳

SDIM9768 by i_noriyuki
SDIM9768, a photo by i_noriyuki on Flickr.
先月、フランスで同性婚法が成立しました。喜ばしいことです。当日、教会で結婚式を挙げたカップルには心から祝福を送りたいと思います。
さて、本日朝日新聞に、中村江里子「パリからあなたへ」という連載記事に、このカップルの結婚を呪うような記事が掲載されました。サイトのアドレスはこれです。http://www.asahi.com/and_M/living/TKY201306170159.html?ref=comtop_list
 いずれこの記事は読めなくなることと思いますので、私が問題だと思う箇所を引用します。この女性はフランスに住んでいるようですが、人生初めてのデモとして、同性婚反対のデモに参加した時の感想として、次のように書きました。「家族連れが多く、切実な思いが伝わってきました。それは私にとっても同じこと……。(一部略)。フランスは同性愛者に関して寛容な国だと思います。でも……子どもにとって両親がパパ二人とかママ二人というのは、あるべき姿ではないと多くの人が思っています。」
 率直に言って、この人にとって、同性婚が切実な問題であるとは到底考えられません。自分は同性愛者ではない、家族がいる、結婚をしている、そういう人が、長い抑圧と差別のくびきをといて、やっと結婚を祝福される立場に立った人間の前に立ちはだかって、「結婚を許さない」と叫ぶのです。これは、偏見に基づいた憎悪の表明であり、最も恥ずべき行為です。
 さらに、もう一点、いろいろな事情で、子供の両親がそろわないなかで、子育てに励んでいる人々はたくさんいます。私の姉もそうでしたし、いとこも子供の父親を明らかにしていません。そういう家庭に対して、幸せに生きる道をともに分かち合うのではなく、「あるべき姿ではない」などと暴言を投げつける野蛮さは決して許せません。このような発言を掲載した朝日新聞は、偏見を扇動したものとして断罪されるべきものと思います。
 写真は、イギリスの港町ドーバーから崖伝いにハイキングをしたときの写真です。写っているのは私の連れ合いです。

追加:朝日新聞に、抗議のメールを書き送ったところ、本日次のような返事がきました。誠実な対応に、感謝します。

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日頃より朝日新聞デジタルをご利用いただき誠にありがとうございます。 
朝日新聞デジタルお客様オフィスの○○です。 

この度は、朝日新聞デジタルの収載記事につきまして、ご不快な思いを
させてしまい誠に申し訳ございませんでした。

■中村江里子 パリからあなたへ  <フランスは“デモ”と“ストライキ”の国>
 http://www.asahi.com/and_M/living/TKY201306170159.html

上記の記事では、同性愛に対する偏見を助長するような表現が
ございましたことを深くお詫び申し上げます。

なお、筆者の中村江里子氏、ならびに朝日新聞デジタル「&M編集部」より、
現在お詫びことばを掲載しております。ご確認いただけましたら幸いです。

■中村江里子 パリからあなたへ記事 <パリの美しい本屋さん>
 http://www.asahi.com/and_M/living/TKY201307100275.html

今後は十分に注意をはらって参ります。 
引き続き朝日新聞デジタルをどうぞよろしくお願いいたします。

追加の注:
書くまでもない、と思いはしたのですが念のために付け加えると、この中村江里子さんが後で書き加えたのは、そんなつもりではなかった、という、日本人がよくするいつもの言い訳です。自分が同性愛者に対して差別や迫害をしているという自覚はありません。誠実な対応、というのは、朝日の編集者が差別を認めた、という点に限ります。

2013年6月10日月曜日

名前にひかれて

Zorbas Bar, Mykonos Town by i_noriyuki
Zorbas Bar, Mykonos Town, a photo by i_noriyuki on Flickr.
この写真を撮りました。ミコノスの港にある何ということもない、入り江の隅にたつバーで、立地はいいはずだのに、見ている限りあまり繁盛しているように思えません。さて、その映画、子供の頃の思い出で、たぶん日曜名画劇場か何かで見たものと思いますが、どういう内容だったか覚えていません。「その男」という邦題から浮かんでくるのはひげ面の、しかしちょっと人を引きつけるところがある男の顔。悲しい習性で、ロンドンに帰り着いてからインターネットで検索、ギリシャ人役をしていたのはアンソニー・クインだったんですね。原題は「S」抜きの「ZORBA」。ついでにYouTubeで聞いてみたテーマ音楽が何とはなしに懐かしい。これは、やはりかつて見たことがあるに違いない、と1人自悦に浸りました。
実は、この写真を撮った日は、運悪く借りていたバイクが誰かによって駐車場の奥に移動され、使用不能、2時間の辛抱の末、道を塞いでいる車が消えるのを待ちきれずに、行き先を調べずにバスに飛び乗り、行く予定の無かった浜辺に着きました。その帰り道、ま、いっぱい引っかけて、と立ち寄ったバーはアメリカ訛りの英語を話すギリシャ人ご一行の同窓会らしき人たちが席を占め、耳を塞ぎたくなるくらいうるさい。さらに騒音とも思える音楽が掛かると、つと、中の1人が立ち上がり、女性の手を取って踊り始めました。ギリシャの踊りは、二人が手をつないで横に並び立ち何ということもないステップを踏む、あれです。映画のラストシーンと重なり、騒音もそれほど苦でなくなった、ということで一件落着。

2013年4月23日火曜日

土筆(つくし)の親戚

Horsetail by i_noriyuki
Horsetail, a photo by i_noriyuki on Flickr.
形は土筆(つくし)そのもの、味もにおいもほぼ同じ、でも近縁種だろうと思います。日本のものと比べてはるかに大柄です。
先週の日曜日、テームズを下って(本当は電車に乗って45分)Leigh on Seaという町に行ってきました。河口が三角州になって湿地帯と土手がなだらかに続いてるところ、一見すると、平和な田園地帯という感じですが、もちろんイギリスに田園はありません。湿地は耕作せずに(塩分が多くてできないか)自然公園になっています。川の対岸は火力発電所らしきものや化学工場の煙突が見えました。さらに南に下ると原子力発電所。ここら辺りの海岸は800年くらい前の城跡、そして60年前のコンクリートの塹壕址、どちらもフランスやドイツなどの隣人との仲の良さを示しているとのこと。さて、ここらで、何人亡くなったのやら。
土筆の化け物は卵とじになる予定、こちらではスギナ本体が民間療法に使われているようで、通風にも効くとか何とか、ネット情報がありました。ちょっと心配な発ガン性は書いてなかったから大丈夫かと思います。

2013年1月15日火曜日

ボヘミアン?

Musicians, Valle Gran Rey by i_noriyuki
Musicians, Valle Gran Rey, a photo by i_noriyuki on Flickr.
これも去年の12月、ゴメラ島の浜辺で見た光景です。この写真を撮った翌々日、同じ場所で座っていると、メンバーの1人がカンパを集めに来ました。この島の人口の2割はドイツ人、とのこと、風貌からも言葉遣いからもたぶんこの人たちもドイツ人でしょう。ドラムとフルート、それから何かの弦楽器で組んだ単調さが心よい演奏、毎夕、この浜で気が向いたものが集まるような緩い結びつきの人たちのようで、顔ぶれは日々少しづつ変わるようでした。周りを取り囲んでるのも、もちろん、ほぼドイツ人です。
 それで、このボヘミアンという言葉。岩波国語辞典には「世間の習慣など無視して放浪的な生活をする人。Bohemian(=ボヘミアの住民。放浪生活をするジプシーに対する称)」とあり、また明鏡には「社会の規範に縛られないで、自由奔放に放浪的な生活をする人。◇もと、ボヘミアの人の意。」とほぼコピーしたかのような定義があります。ドイツ人をボヘミア人と呼ぶのは当たりませんし、「社会規範にしばられないで」というのも本人たちに聞いたわけじゃないからどうか分かりませんが、生まれ故郷を抜け出して、よその地で定職に就かないで暮らしているという点で、「自由奔放」とか「放浪生活」という定義に少し引っかかる感じがします。正直に言うと、こういう暮らしがうらやましい。交通の便の良くないこの島に住み着くのはなぜかドイツ人、イギリス人でもイタリア人でも、まして日本人でもありません。ボヘミアの血が少し混じってるんでしょうか。


追加の注:前のポストでドイツ人は島の半分と書き、ここで人口の2割と書いたのは一貫性がない、と非難したくなると思いますが、人口の2割とは在住者のうち、ということ、観光客の過半はドイツ人ですから合計して半数を超えるというのが、自分の印象です。

なお、岩波の「世間の習慣など無視して」のほうが、語のイメージとしてしっくり聞こえる気がしませんか。「ボヘミアン」などという人たちは見たことがないし、たぶん、本当には存在しない、ということは横に置いといて。

2013年1月13日日曜日

形容語がみつからない

昨年末、カナリヤ諸島に行ってきました。この写真はテネリフ島のEl Medánoという町の一角で写したものです。広場の中ほどに日本のものとはふた味ぐらい違うモダンなすべり台が橙色と黄緑そして赤く塗られてありましたが、全く人気(ひとけ)なしです。地面は褐色のれんがで丁寧に仕上げられています。ここから浜辺までわずか100M、そこは家族連れとサーファーの声でにぎわっているだけに、異様な感じがします。落書きも小さいのが一つだけ。写真をよく眺めてみると、取り囲む建物は入り口が見当たらない、つまりここはホテルの裏側に面しているということになります。
 そこで、この広場をどう表そうかと考えてみたのですが、うまい言葉が見つかりません。Flickrには'Deserted Play Ground'と載せましたが、その訳語の「うらさびれた」とか「見捨てられた」というような日本語はないなあ、と思うし、「凄(すご)い」というのは、ぞっとするような違和感は押さえているものの、恐ろしい感じとまではいかない、ということで却下。先に「人気(ひとけ)がない」と書きましたが、それはそれだけのことで、ここにいるはずの子供の声が聞こえない、ということからくる当惑はあらわせません。はてさて、困った。どなたか分かる人、教えてください。
 なお、ここはテネリフ島でも古手の観光地、とはいうものの、町に外国人の姿は目立つことなく、スペイン人で占められていました。ここにくる前に10日間ほど泊まってきたLa Gomera島が半分ドイツ人(のボヘミアンらしき人々)の町になっているのと対照的で、なんとなしに少しほっとしました。

追加:
福島原発の汚染地域を見に行った人の文章の中に次の句がありました。小学校の運動場を写した写真についていた言葉です。

本来子供たちがいるはずのところに、誰もいないのは、恐ろしい。