2013年11月29日金曜日

はいじ、ハイジ、廃寺?


 今年の夏、島根に帰省し、その最後の日に松江城に行きました。この写真は敷地内にある稲荷神社の狐です。その神社の参道を歩いていると、後ろから女の声で、「真ん中を歩くな!神さんが通るところだ!」と鋭い声がして振り向くと、20歳くらいの女性とその連れが我々の後ろに続いていました。どうも、我々に参道の中心部を歩くな、と言いたかったようなのですが、その声はこの国の若い世代の迷妄(めいもう)を本気で信じたがる心性(しんしょう)を象徴しているようで、本当にやり切れない思いがしました。
 さて、話かわって、昨日、ロンドンの日本語センターでオックスフォードブルックス文庫立ち上げのイベントに参加してきました。日本語学習をしている大学生を対象に設定した読み物を提供しようとする試みです。日本語を勉強し始めた人たちにとって、自分たちのレベルに見合った読み物を探すのはなかなか大変で、独習で読める読み物を古典を書き直したり、昔から伝わる話を語彙(ごい)と文法に制限を加えて読みやすく提供しようとする試みです。私はその努力が大変なものであることを知っていますので、イベントにいそいそと出かけ、入り口で初級用一セット購入しました。そこで本題の一つ、語彙のコントロールです。シリーズは現在A2レベルが2部できていて、それぞれ、短い話が5冊セットになっており、その一つの作品が「廃寺の謎(なぞ)」。当然この「廃寺」も「謎」も当該(とうがい)レベルには入らないもので、日本の日常でも「廃寺」の方はまず使いません。語彙のコントロールがいかに難しいか、ということですが、それを補足するための脚注類(きゃくちゅうるい)はついていません。多分、日本語能力試験1級を通った人が読んでも、直ちに理解できる語彙ではないのではないか、という印象を受けました。
 二点目、これが最も気になった点、その内容です。不審(ふしん)な電話を受け続けるという若い男の子が荒れ果てた寺の境内(けいだい)で見つけた水子(みずこ)の地蔵(じぞう)を立て直してやったら、不審電話が止まった、というお話です。冒頭に書いた、日本の迷妄にすがる精神性を体現した小話で、そういう点では、現代の日本文化の紹介にふさわしい、と言えるのかもしれません。私は、物事を考えることを放棄し、迷妄にすがって生きる人がどんどん増えている日本の現況が悲しいので、そのような思いを監修の先生に伝えましたところ、そういうことは作者に言ってください。」との返事でした。今度作者に直接伝えようか、と本気で考えています。

2013年11月2日土曜日

夕暮れどき

Centre Pompidou, Paris by i_noriyuki
Centre Pompidou, Paris, a photo by i_noriyuki on Flickr.

 「かはたれ時」というのと「たそがれ時」というのは、時間帯が違うんだそうです。私はずっと同じものだと信じ込んでいました。もちろん同じ時刻を表すという使い方もあるような話です。辞典を調べてみると、「あれはたれ時」、とか、「あれはたそ時」というのも見つかりました。こういうのは、もう使われなくなったのが残念です。自分がふだん使うのは「夕暮れどき」です。
 ところで、こないだ、図書館においてあったので、水村美苗さんの本を2冊借りました。正直に言うと、この人のものは読もうという気にならなくて、手を触れたことが無かった、もしこの図書館の新規購入図書の棚になかったら、死ぬまで読まなかったことと思います。で、感想は、予想通り、我々の世代の文章表記能力の低さを改めて確認するものになりました。ご本人が一生懸命書こうと努力しているのがわかる分、余計に悲しい思いがします。また、自分の頭に浮かんだことをとにかく全部書き表そうと努めている跡が読み取られて、痛々しい感じがします。共有できる部分は、近年の日本語の言語表現が貧しくなっているという指摘です。この人と一つ違うと言えることは、ことばを身に付ける時期に、出雲の在郷で、そして小学校に入ってからは北河内で育ったことで、アメリカで暮らした水村氏が読書から得たようなことばの切れ切れを、直接、身内や近所の人たち、そして教会に来る信者さんの語り口と立ち居振る舞いから吸収したという点です。文字からと目や耳からの違いは大きいと思う。もちろん、自分のことばにならなかったのはお生憎様ですが。
 写真に写っているのは、たぶん、日本人の親子で、観光に来たんでしょうか。歩く早さ、動きが違うからか、このような写真の効果になって現れました。