2016年9月5日月曜日

夏の終わりに


  ギリシャのザキントス島の入り日

 この写真は、海辺で泳いだ後、裏山にハイキングにのぼり、山を下りる道に迷ったさいに撮った写真です。盛大なフレアがでています。いったい、いくつ出ているのか、大きい赤丸だけで二つ半、小さいのは、使われているレンズの数だけあるのか、それとももっとあるのかな?しぼりが少しかかっている分、ギザギザが入っていて、きれいな円でないのも愛嬌です。

 原因は、光量の過剰でしょうか。でも考えると、このような現象はどんなものを撮っても起きるはずなのに、写真に出てこないのは、うまい具合に影響が調整されていて、気がつかないように仕組まれているからなんでしょうね。で、過剰という話。つい最近参加した日本語の先生の集まりで「過剰敬語」という言葉を使っている人がいました。その内容とは関係ないんですが、私は敬語のありようについて、一家言あります(一家言というのはもったいぶった言い方です、念のため)。
 何かというと、敬語を使うのはもうやめよう、ということです。まともに(これも議論があるところ)使える人はもうほとんどいない、そういうのを聞かされるとうんざりする、間違って使うと、意味が分からないし、聞いている側も腹が立つ、などなど、いろいろありますが、一番の理由は、相手次第で言葉づかいを変え、相手の格をはかり、上下関係・親疎関係を計算し、場面をおもんぱかり、自分の押し出し(キャラなるもの)を演出し、などなど、というのが人間として卑しいし、そういうことに気をつかうのが鬱陶しくてしかたがないからです。そうはいっても、他人が使っているのに自分が使わないと、「ため口」などというへんてこりんな言葉で陰で悪口を言われたり、言葉を知らないやつだと、正体を見抜かれたりもしますから、それも困る。それで、さしあたりの妥協点、丁重語なるものを廃止しよう、という考えにいたりました。
 丁重語(あるいは荘重語)の仕組みは、知っている限りでは、そんなに古くないはずです。サムライあたりが、かっこつけに使ったか、できの悪い時代小説が雰囲気作りのためにでっち上げたか、そういうたぐいの、「荘重さ」を演出するだけの表現は、意思疎通には不要で、やめた方がいい、という、これは正論だと思います。賛成してくれる人、今からすぐに実行しませんか。

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