Erithからテームズ河畔を下り、支流のRiver Darantに曲るあたりでみた廃棄物処理場
もう一つが、「おおまがとき」、これは、昨年末の勉強会で例に出し、まちがえてしまった恥ずかしいやつです。「が」が付く現代語に何かないかな、ふと思い出したのが、「逢う魔が時」ですが、この言葉、本当は「大禍時」だったらしいんです。「が」とは無縁な語でした。他人(ひと)のことは笑えない、記憶では何かの小説で読んだようにおもう。でも、これについては、辞書にもちゃんとごていねいに「逢魔時」と書いてるのもある。意味は夕暮れの薄ぐれどき、かはたれ時、とほぼ同じ頃とのこと。良くないことが起こりそうな時刻で、さっさと家に帰りなさい、という京都の人のありがたい教えだった。この間違いにはおまけが付いていて、「逢う魔が時」と「百鬼夜行」というのを、これまた混同して覚えていました。百鬼夜行は宇治拾遺物語にありました。でも、その話もきちんと読まないで、字面から「夜、たぶん深夜に出歩くと、ぞろぞろと歩き回る魔物のパレードに鉢合わせしてしまうこと」のように思い込んでいて、そういう意味で、「逢う魔が時」にぴったりだ。「!」これ使お。となったわけでした。従来、「が」は「逢う魔」のような語にくっつくわけもなかったはずが、現代語ではそういう用法に変化してしまった、という例になりそう、と思ったのでした。さて、もう一つ言い訳があります。この思い違いは、自分だけじゃなさそうで、どうも、そういう作り話がごまんと、そこらにながされているようです。お暇な人はネットで検索して下さい。
以上のことから言いたいことは、人は自分が知らない言葉を聞いた時、自分のあり合わせの語彙を利用して、なんとか合理的な解釈を行おうとする、その結果、その新しい解釈をする人が、一人でなく複数、あるいは、ある程度の人数に広がっていくと、新しい表現が誕生する、という現象にあらためて注意がむいた、ということでした。人の思い込みとは恐ろしいものです。最後に、もう一つ写真を。
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